私のバイク模型作りに多大な影響を与えたPROTAR。
私だけでなく、恐らく世界中のバイク・モデラーや (バイク模型を手掛けたことのある) 模型企業で (好き嫌いは別として) この
PROTARを知らない、意識しなかったものはいないだろうと思います。
想像ですが、その「影響力」に比べたら販売数量は驚くほど少ないのではないでしょうかね。
タミヤやハセガワといった世界的企業から見たら鼻でせせら笑う程度しか売れていないと思うのですよ。まるで趣味の世界。
それだけに私はプロターに触れ合えたことは凄く幸せでした。
私だけでなく、プロター・キットを所持し、作ったことのある世界中のバイクモデラーは、とてもとても幸せだったんですよ。
そのPROTAR創始者のタルクィニオ・プロヴィーニさんが今年の1月6日に亡くなった。
悲しいことだがPROTARそのものがもう亡くなったといってもいい。
どこの模型メーカーだって絶対キット化しないよ、なんて車種をゴロゴロ作ってくれていたPROTARは死んだも同然だと思う。
イタレリが今後も再販するとかいってるらしいけれど当てにならないし、売れそうな有名な車種しかやらないでしょ。
そんな意味で、その幸せなプロター時代を知っている皆が「プロヴィーニさん有難う」って意味で自作品を公開するのはとてもとても
意味のあることだと思いますよ。
上手いとか下手とか、いいとか悪いとか、考証がどうの、改造がどうのとか関係ない。
俺が、私があのプロターと触れ合ったという証拠物件みたいなもんだよ。
ぜひ皆お気に入りの作品でエントリーしてください。
沢山の沢山の、同じ「プロター時代」 を生きたバイク・モデラーの証しを是非公開して下さいね。
詳しい応募規定や公開予定についてはプロヴィーニ追悼作品展事務局のHPを見て下さい。
プロヴィーニさんと私:
私は相当昔の人ですから(笑) 「火の玉男」と呼ばれたプロヴィーニは当時から勿論知っています。
当時から精密機械好きでしたからホンダの4気筒を心から愛しており、ジム・レッドマンは英雄。それを単コロのモリーニで追い回す
プロヴィーニは大嫌いでした。(ヤマハの2ストロークも当時は好きではなかったねえ)
1963年(高校生だったかな)鈴鹿の最終戦でレッドマンが勝ったニュースをどこで知ったのか(当時は全くニュースにもなりません
から) 憶えていませんが、快哉を叫んだ憶えがあります。
しかし翌年プロヴィーニは4気筒のベネリに乗換え、初戦レッドマンを打ち負かす。憎たらしいプロヴィーニめ。
そのプロヴィーニさんが私の人生にこんなに深く関わってくるとは当時は想像もしませんでした。
模型作りがプラモデルという形でこんなに簡単になる前は、青写真1枚と木製や金属のキットというか素材の寄せ集めが材料でした。
また多くの飛行機モデラーや艦船モデラーは図面だけを買ったり、あるいは自分で描き起こして素材を集め、工作道具を駆使して
自作していたものでした。
私が子供のころ、模型作りは大人の趣味でしたし、周囲にはTSMC (東京ソリッド・モデル・クラブ)の会長さんなど素敵な模型好き
大人達が沢山いましたので、私もそんな大人になりたいな、と思っていました。
そして私が中学生のころ、光り輝くように高価なプラモデルが登場したのです。
子供の小遣いではとても買えないようなプラモデルでしたが、国産品が徐々に手軽に買える価格で広まり、それこそ夢中で様々な
ジャンルのプラモデルを組み立てたものです。しかし、中でも強く興味を魅かれたのは、元々実車好きだったこともありバイクの
ブラモデルでした。
特に記憶があるのは、新宿の紀伊国屋書店に入る通路に「要屋」 というブロマイド屋
さんがあり、何故かここにバイクのプラモデル・キットが飾ってあったのです。
函はなく赤いプラ一色で成形された、今思えばレベルの1/25でしょうか。宝石の
ように輝いて見えました。
我々が買えるバイクのプラモは日東のスズキRM50とメグロの白バイ、そして
思い入れの深い日模のスーパーカブぐらいでしたから、その小ささと精密度には
驚嘆しました。勿論、高価で買えるものではありませんでしたが。
新橋のステーション・ホビーにもよく通いましたが、これも中々買える価格のものは
少なく、店主に嫌な顔をされていたものです。(笑)
その後レベル1/8がマルサンそしてグンゼから幾らか安く登場し、小遣いを貯めては
貪るように買い、作っていました。それはそれで充分満足していたんですが・・・。
当時の典型的国産キット。日東科学「メグロ白バイ」
社会人になって、少しゆとりが出来た私は銀座のイエナ書店や
青山にあった嶋田洋書で時々「スケール・モデルス」や「モデルカー
サイエンス」 といった模型洋書を参考資料として買うことがあり
ました。それに、プロターのモデルが紹介されていたんです。
モトグッチのV8の写真を見て、頭が真っ白になりました。
なんなんだ、これは?? こんなレーサーがあるのか??こんな
模型があるのか??
レベル1/8のバイク・キットとは全く違う世界にひどく興奮し、
何とか手に入れたい、実物を見たいとそれこそ狂気のように
なりました。
そして、いてもたってもいられなくなり、その模型雑誌の巻末に
広告を出していたアメリカの通販会社に手紙を書き、小切手を
作ってもらい発注していました。
今では信じられないでしょうが、ファックスもネットもない時代、
しかもドルを送金するのにやたら面倒な許可の必要だった時代
です。そのやり取りだけで2ヶ月以上は優に経過していたよう
に思います。
私を狂気に追い込んだModel Car Sciense誌。1969年11月号
そして届いた知らせの嬉しさ、東京駅の丸の内にある郵政省・東京税関まで取りに
行き、中身を説明し、関税を支払い通関してその荷物を持って帰った時のことは、
今でも昨日のように鮮明な記憶として残っています。
そのプロター・キットを作ったのが「火の玉男」プロヴィーニさんだったのですね。
そのことは雑誌を読んだときから分かっていたんですが、当時はどうしてもレッド
マンを追い掛け回したあの憎たらしいプロヴィーニとどうしても結びつきません
でした。
憧れのプロター製モトグッチV8を遂に手に入れた。
それから幾星霜、思えば私がこうしてバイク模型作りを生涯の趣味として
楽しんでいられるのは、その時プロターから受けた大きなショックと興奮が
根底にあるような気がします。
今では(一生掛かっても作りきれない程の) 沢山のプロター・キットを買い
込みました。
でも人様にお見せできる完成品は僅かに2つしかありません。
それは、今プロターと向き合うとその当時の興奮が甦って、仇疎かに作ると
バチが当たりそうな気がするからだと心の中で弁解しているのです。
プロヴィーニさんなら「そんな御託ならべねえで早く作れよ」とイタリー語で
言うのでしょうね。
あの憎たらしい「火の玉男」プロヴィーニならきっと言うでしょうね。
数少ない私のプロター完成品。ヤマハRD56。
当時は嫌いだったのに。
今回のプロヴィーニさん追悼の作品展は、久し振りにプロターと向き合う好いチャンスを貰ったような気がします。
自分でも作りたい気持ちが起こってきましたし、全国のプロター好きモデラーの作品が沢山見られるのもとても楽しみです。
皆さんも古いキットの埃を払って、ぜひ参加して下さいね。